橋本健二の読書&音楽日記

日々の読書と音楽鑑賞の記録です。

ザルツブルク音楽祭2018 歌劇「サロメ」

classingkenji+books2018-08-23

この日は、ハンス・ウェルザー・メスト指揮のウィーン・フィル、ロメオ・カステルッチの演出で、オスカー・ワイルド原作、リヒャルト・シュトラウス作曲の歌劇「サロメ」。会場はフェルゼンライトシューレで、私の席は前から4列目のいちばん左。
演奏が始まる前から、サロメの後ろ姿が投影されたり、黒服の男たちが歩いたり、ビニール袋をかぶった男たちが蠢いたりと、不気味な演出がはじまる。フェルゼンライトシューレの舞台奥のアーチの空間は、アーチ部と同じようにざらざらした質感の素材で埋められ、やや白っぽい、巨大な岩盤のようにみえるよう加工されている。
演奏が始まる。ナラボートと小姓、ユダヤ人たちのやりとりのあと、サロメが左から走って入ってくる。純白のドレスを着ているのだが、体の背面の足の付け根あたりが真っ赤な染みで汚れていて、サロメが少女から女へと変容を遂げたばかりであることを暗示している。
意表を突いたのは、ヨカナーンの登場。背景全体を照らす白っぽい照明の一部が円形に消されて、まるで黒いスポットライトを当てたかのようになったところから、黒い塊が蠢きながら現れる。黒子たちとヨカナーンである。サロメとヨカナーンのやりとりが始まると、黒い円が次第に広がって、サロメを飲み込んでしまう。ヨカナーンの世界を象徴する黒い空間で、サロメはヨカナーンを賛美する。
見所のサロメの踊りの場面だが、サロメは一切踊らない。金色に光る台の上で、ドレスを脱いだ半裸姿でうずくまったまま、微動だにしない。奇抜な演出である。あえて踊らせないことで、半裸で踊るサロメの姿を暗示したのだろう。もっとも、これなら踊れないソプラノでも起用できる、ということかもしれないが。
カナーンの首が欲しいというサロメをなだめて、ヘロデが別のものを与えようとするシーン。ヘロデが宝石や白孔雀などを提案するたびに、ビニール袋に包まれた死体(のようにみえるが、ほんとに死んでいるわけではなく、あとで動き出す)が舞台に置かれていく。宝物というものは、人の命と引き替えに得られたものなのであり、死体に等しいということか。
これ以外にも細かな仕掛けがいろいろ。ほとんど意味がないように思われるところも多く、少々やり過ぎではないかという気もするが、全体としては成功だろう。何より素晴らしかったのは、サロメ役のアスミク・グリゴリアンで、最後の場面で「もし私を見ていたなら、あなたは私を愛しただろう」と歌い上げたところは圧巻。正直いってあまり期待していなかったメストの管弦楽が、意外に素晴らしかったこともあって、私としては珍しく、まったく退屈させられる場面のない歌劇公演だった。(2018.8.21)