橋本健二の読書&音楽日記

日々の読書と音楽鑑賞の記録です。

ショスタコーヴィチの室内楽2

 現代音楽を聞き始めた頃、愛読した本に矢野暢の『20世紀の音楽──意味空間の政治学』(音楽之友社・1985年・品切)がある。著者はアジア政治研究の権威で、スウェーデン王立科学アカデミー会員としてノーベル賞の選考にも関わったとされるが、1993年にセクシュアル・ハラスメントで告発され、京大教授を辞職。京都の寺などで隠遁したあとウィーンに移住し、1999年に死去した。つねに複数の秘書を雇い、出張に同行してホテルに同宿することを強要していたという。お笑いコンビ「くりいむしちゅー」の有田哲平はその甥。相方の上田はうんちく王チャンピオン決定戦で、この事実を暴露して笑わせている。
 この本の中で矢野は、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲について次のように書いている──「ソヴィエト体制に生きる作曲家としての公的な意思表示の手段が交響曲であったとしたら、弦楽四重奏曲は、人間としての自己表現の手段と考えられたのである」。ちょうどヴォルコフ編の『ショスタコーヴィチの証言』が話題になった頃でもあり、この指摘はなかなか腑に落ちるものがあった。しかし、このような図式的な把握は正しくない。それは、かつて左翼の音楽好きが、ショスタコーヴィチ交響曲に革命への情熱を聞き取ろうとした図式的な聴き方の変形に過ぎないからである。私の考えでは、ショスタコーヴィチはリズムの作曲家である。ありとあらゆる多様なリズム。それでいながら、ショスタコーヴィチのリズム以外の何ものでもない。それが交響曲にも室内楽にも共通の、彼の特質である。もちろん、音楽形式の違いというものはあるから、矢野の指摘にもうなずける部分がないではない。しかしそんなことを言えば、ベートーベンをはじめ多くの作曲家にも、交響曲=公的、弦楽四重奏曲=私的という図式はあてはまる。
 今日では『証言』の大部分が捏造だということは、研究者の間では広く認められている。詳細な考証も行われているが、何よりも、本人にしか証言できないような「秘密の暴露」がない。あちこちで書かれたり伝えられたりしていることを、一人称に直しただけか、でなければ、ショスタコーヴィチが仮に反体制派であったとしたらこう考えたかもしれないと、誰でも想像できることしか書かれていないからである。たとえば、後に発見された歌劇「半形式主義的ラヨーク」についての明確な言及がない。この作品は、スターリン、ジダーノフ、そしてソ連作曲家同盟書記長だったフレンニコフが、馬鹿馬鹿しい芸術論や音楽論を繰り広げるという風刺劇で、日本でも1991年、モスクワシアターオペラによって初演された。その存在は、ショスタコーヴィチに親しい人々の間では知られていたが、ヴォルコフはそれを知らなかったのである。 さて、この5枚組のCDは、エマーソン弦楽四重奏団によるもの。現代的でスマート。のびやかで、音楽がスムーズに流れていく演奏だが、テンポに変化をつけることはあってもリズムそのものは崩さないから、本質は外していない。この点は、モスクワ・ラフマニノフ・トリオと共通である。


String Quartets

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