橋本健二の読書&音楽日記

日々の読書と音楽鑑賞の記録です。

ザルツブルク音楽祭2012 アーノンクール/ヘルツォークの「魔笛」

classingkenji+books2012-09-04

ザルツブルク音楽祭、最初に聴いたのは八月一九日の「魔笛」。演出はヤンス・ダニエル・ヘルツォーク。演奏はニコラス・アーノンクール指揮のウィーン・コンツェルトゥス・ムジクス他である。年齢からいって、アーノンクールの「魔笛」は、これが最後ではないだろうか。
アーノンクールがオペラでもユニークな演奏をすることは、ザルツブルク音楽祭で演奏されたモーツァルトのオペラ全曲を集めたDVDですでに知っていた。しかし実際に序曲が始まると、鮮烈なリズム、鋭いアタックに驚かされる。なるほど、百聞は一見にしかずである。しかし、ヘルツォークの演出のユニークさは、これを遙かに凌駕していた。
魔笛」の音楽の素晴らしさは、すべての人が認めるだろう。しかしストーリーはというと、いろいろ問題がある。細部につじつまの合わない部分があることは措くとして、最大の問題は、最初は被害者=善玉だったはずの夜の女王が、途中で悪玉に変わることである。変わることそれ自体は大きな問題ではないが、何が悪いのか、なぜ地獄に落ちなければならないのか、まったく理由が示されない。強いて言えば「女だから」「女は理性的でなく、男に従うべきものだから」ということのようだが、これではまったく理由にならない。
ヘルツォークの演出は、夜の女王とザラストロの両方が「悪」または「偽善」であるとすることによって、この問題を「解決」している。 まず冒頭の、三人の侍女がタミーノを救うシーンからしてユニークだ。もともとは大蛇に襲われたタミーノを三人の侍女が救うことになっているのだが、この演出では、美男子のタミーノに目をつけた侍女たちが、わざと大蛇をタミーノの寝室に忍び込ませるのである。だから、最初から侍女たちは正義ではないことになる。
物語の構造が全貌を現すのは、ザラストロが登場するシーンである。このシーンには、あっけにとられるほどの意外性がある。ザラストロは科学者か医者のような白衣姿で、ハゲ頭の後ろから太くて黒いケーブルのようなものが垂れ下がっている。一瞬、辮髪かと思ったが、そのケーブルは腰の前あたりにくくりつけた四角い装置につながっていて、装置には一定間隔でランプが点滅するようになっている。頭と装置をつなぐこのケーブルは、映画「マトリックス」を思わせ、四角い装置は知力や権力の象徴であるようだ。そしてザラストロの部下である聖者たちは、やはり白衣を着た科学者か医者のような姿をしている。
ここで提示され、次第にはっきり形を表わしていくのは、二つの世界の対立である。一方に、ロマン派のオペラが描いたような色恋沙汰と堕落の世界。そして他方には、矯正と内面的強制を特質とする病院=学校的世界がある。これは近代が生み出した二つの、対立する世界である。夜の女王は前者の、ザラストロは後者の指導者だ。
ザラストロは、この病院=学校的世界の指導者なのだが、完全に人心を掌握しているわけではない。第二幕の冒頭、ザラストロがタミーノを受け入れることを提案するシーンでは、三和音が鳴り響くごとに渋々手を上げる聖者たちが増え、最後に全員がやる気なさそうに手を上げる。「統一を示してくれてありがとう」というザラストロのセリフに、観客からは失笑が漏れた。とはいえ聖者たちは、病院=学校的世界の住人として職務に忠実だ。二人の聖者がタミーノとパパゲーノに女から身を守れと歌うシーンでは、聖者が二人の頭を押さえつけるなど拷問まがいの動作を見せ、聖者たちの合唱では、白衣姿の聖者たちがカルテか実験記録か何かのような紙をめくり、文字を書きながら歌う。
そして最後は、ザラストロ陣営と夜の女王陣営がつかみ合いのケンカをするのをよそに、タミーノとパミーナ、パパゲーノとパパゲーナが幸せそうに歩いて行く。例の装置はというと、いつの間にかパパゲーノとパパゲーナの子どもをあやすおもちゃに使われている。近代の産物である二つの世界は、近代のもうひとつの産物である近代家族=友愛家族に敗北するのである。
このように「魔笛」の物語の構造を整理して「問題」を解決したヘルツォークの演出は、一見したところは斬新だが、近代家族の礼賛という凡庸な結末に終わるのである。その犠牲となったのは、三人の童子である。敗北する二つの世界と、勝利する一つの世界のいずれとも良好な関係にある童子たちは、矛盾を抱えたまま、中途半端な位置に放置される。そのため、童子たちはよくあるような無邪気で汚れなき存在であることはできない。このことを理解しているヘルツォークは、童子たちに年齢に似合わない老執事の外見を与えた。
こうした問題を残したとはいえ、画期的な演出であることは間違いなく、全体としては高く評価したい。以後「魔笛」の演出者は、ザラストロを無前提に善の代表者とすることを躊躇せざるをえないだろう。
演奏は、この画期的な演出ほどにはユニークとはいえなかった。歌手たちは随所で、このユニークな演出にある程度まで即した歌い方をしたが、全体としては意外にまとも、悪くいえば平凡。いや、アーノンクールの演奏が平凡であるはずはないのだが、演出の斬新さとの比較で、平凡にしか聞こえなかったというべきだろうか。いずれ、演出に左右されることのない録音で聞きたいものである。
写真は、カーテンコール。右から順に、夜の女王、パミーナ、アーノンクール、タミーノ、パパゲーノ、ザラストラ、三人の童子である。