橋本健二の読書&音楽日記

日々の読書と音楽鑑賞の記録です。

小林信彦『日本橋バビロン』

小林信彦の三部作では、この作品だけ、途中まで読んで放置していた。改めて最初から通読。おそらく、三部作の中ではこれが最高傑作だろう。
「流される」は母方の祖父から説き起こされていたが、こちらは著者が二歳の時に亡くなった父方の祖父とその長男である父親から話が始まる。祖父は才覚があり、頑固で、商売に執念を持つ人物だった。これに対して父親は、繊細で商売には関心のない人物だった。この二人を縦糸に、今は東日本橋と呼ばれる当時の両国とその周辺が、いまは失われた過去の都市として描かれていく。
駅前広場ができたこと以外、大きな成果のなかった戦災復興事業と違って、成果が強調されることの多い震災復興事業だが、著者は「道を改変することは、町そのもの、人々の生活の改変を意味した。横町の奥にあった有名な寄席、鮨屋などは、まず最初に排除された」と厳しい。しかし祖父は、区画整理で町の中心的な役割を果たし、結果的に商売に有利な角地を手に入れた。これは当時の区画整理に関する重要なエピソードである。
子どものころに家族旅行で出かけたのは、天津小湊と銚子、潮来袋田の滝伊香保温泉。これらは「下町の人種が気を入れて出かける観光地、避暑地」だった。いずれも東側で、西の地名は思い出せないという。川本三郎は房総半島を、庶民の好む「近所田舎」だったと書いているが、もう少し範囲は広かったようだ。
高校生のころの下町脱出願望についても、やはり言及がある。高校からの帰り、「春日町めがけて都電がぐっと下ってゆく時、私は軽いうつ状態になった」「はっきりいえば、自分が山の手の〈文化的環境〉から、下町という〈非文化的な環境〉に吸い込まれてゆくことへの抵抗感である」。同じようなことを著者は何度も書いているが、これはそのなかでももっともきつい表現である。
一九六〇年代になって、小説の取材のため実家のあったあたりを歩いた。隅田川は、工場廃液で汚れに汚れている。そのとき偶然出会った知人は、「ここはもう、人間の住むところじゃありませんよ」「この悪臭で柳橋花柳界はほろびるでしょう。なんせ、窓をあけられないんですからね」という。著者は「その時は、この町を逃れてよかった、と思った」と書く。
実家の和菓子屋は、著者が十代目にあたるという老舗である。食料統制が始まっても、別扱いで材料を入手できる二十八店のひとつに入っていたという。祖父は震災の教訓から、建物の一部を鉄筋コンクリート造りにしていた。建物が燃えても、倉庫と作業場が確保できるようにしたのである。実際、東京大空襲のあともこの部分は残り、帰ってみると人が住んでいた。
それから四十年以上経ち、いまはマンションとなったその場所を雑誌の取材で訪れて著者は、土地の人から意外な事実を知らされる。工事の時、地中に大きな機械が埋まっていて、その機械にはべったりと黒いものがこびりつき、分析してもらったらアンコだったというのである。著者は推測する。地下室には小豆と砂糖が蓄えられていた。ここに消火のための水が流れ込み、そこへ炎が襲いかかれば餡ができるのではないか。「祖父のこの土地への強烈な執念を私は感じた」。最後を飾るにふさわしいエピソードである。この三部作を「東京少年」「流される」「日本橋バビロン」の順番で読んだのは正解だった。
私は単行本で読んだが、すでに文庫化されている。

日本橋バビロン (文春文庫)

日本橋バビロン (文春文庫)